2014年7月13日日曜日

「光について」〜加藤亮二、片岡フグリ、ツーマンへ向けて〜

「光について」

来る8月9日、上京以来の親友であり、良き対抗馬、
加藤亮二(大阪)と、私、片岡フグリに依る「歌」の対決を、
真っ昼間の新宿ジャムにて行います。

漆黒の夜ならば、自ずと灯されるであろう電灯。しかし、時は真夏の午後。
階段を上り外へと一歩出さえすれば、容易くそこには、うっとうしいまでの光がある。
にも関わらず、人工の光に頼らざるを得ない、昼間の「地下」をあえて対決の場に選んだのはなぜなのか?

自分にとって、歌う事。その命題の一つに、光に触れ、そしてそれと同化する。という事があります。
照らす照明を見つめ続け、目が眩み、ギターチューニングが出来ぬほど目の前が真緑になることも暫しです。
(チューニングメーターは緑の灯りで表示される事が多い為)
それでも、尚、光を見つめ、手を伸ばし続ける。
そして、その光とは「太陽」の事ではありません。

日々の循環に於ける、太陽の死。いつもの様に、夜明けがやってくるのかも分からない不安を乗り越えるため、炎という「嘘の太陽」を作り出し、人間は自発的に自然からの乖離を果たし、それに付随して、あるものが産まれました。

闇を照らす「光」を作り出した事で、これまでは目をつぶり、
夜行性の生き物を除いてはじっとしているか、
或いは、夢を見ているしか無かった、ただの暗闇から
人間は「夜」という時間を誕生させたのです。
それは人間が、動物から人間への第一歩を踏み出した瞬間であり、
永遠に自然のリズムからの離脱を果たした大異変であったと言えます。
真っ暗になるのならば、自然の摂理に従い、明日が来る事を祈り、動物の様に眠ればいいだけの話にもかかわらず、
あえて、「不自然」に、且つ自然から自立した、新しい光の時間を生きることを人間は選びました。

同じ様に、生きるための呼吸を音に変えてまで、「歌う」という行為。
それはとても不自然なことです。
生殖を目論んだ「歌」を行う動物はいますが、その歌は生に直結している為、
人間が行うそれとは、意味合いが全く異なります。
歌とは、コミニュケーションであり、独白であり、生への問いであり、
その理由は様々ですが、始まりは不自然だということに違いはありません。
「歌うため」に「歌う」という行為を行っているのは、人間だけなのではないでしょうか。

しかし、「美」は「不自然」にこそ宿ります。
かつては漆黒であり、夢を見ることしか適わなかった夜に、
狩りや、採集、その他の生産的かつ動物的行為を終えた洞窟の闇の中に、
「光」という不自然を持ち込んだ人間が、
自然を模倣し、或は越えようとして作り出したのが、「美」の起源であるからです。
そしてそれは、「嘘の世界」であり夜の専有物であった見るだけの世界。
「夢」を具現化する行為にも繋がります。

とは言うものの、もはや現在では照らされる夜は自然であり、立ち止まって考える事は、
あまり無い様に思います。
だからこそ、あえて昼間の太陽光を拒否し、その暗闇をより明確に感じられる地下空間を、有限な天井に昇る「嘘の太陽」で照らし、歌うこと。
その不自然を通して、美の原点に、いま一度立ち返ることが私の挑戦なのです。

最後にもう一つ。加藤亮二は、滲み出す男です。
彼の佇まいを見れば、なんらかの「歌」を、そして「生活」といった具体的なものを感じる事でしょう。
対して、片岡フグリの歌は「抽象」である。とよく言われます。
かつて夜が持っていた神秘。人間が動物であった時に見た夢。
その巨大な感情の共有意識のプールにアクセスすること。
そういった抽象的かつ、美の原点の更に原点に立ち返る事も、もう一つの命題です。が、その話はまた、別の機会に。

それでは、8月9日お昼、新宿ジャムでお待ちしております。

「イカロスよりも高く、より無様に。嘘の太陽へ飛び立つ。」

片岡フグリ



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