2016年10月3日月曜日

「サヴァイビングカスライフ vol2」片岡フグリ(ライブ喫茶亀 メルマガ9月号)


「これは、持ってる、、これは、、読んだ、、」
と必死の検分はさながらテロ直後の空港税関の体を為す。
「危険はないか?」「脅かされやしないか?」という静かだが必死の入国審査が意識下でずっと続いていた。

びっしりと棚に詰まった本たちが写っている。
ある種の到達や自負心を無言の内に語っているそれらは、
あるべき場所に疑いもなくある様な顔をして鎮座している数多のバッグ、アメコミグッズ、またはポケモンぬいぐるみなどにも同様に言え、「雑多」の一言で片付けるのは不可能で、もはや「禍々」とも形容したいほどだ。
そのパワーにあてられながらも、目を離せないでいた。

墨田区押上、スカイツリーの城下町とも言えるロケーションに聳えるとあるギャラリーに川本史織さんの「女子部屋」という展示を見に行った。
都市に暮らす102人の一般ガール(それでも恐らくはある程度の水準を超えたアーティスト的な方々)の「部屋」と「暮らす彼女たち」を広角に捉えた写真が所狭しと並んでいる。

「誰が撮ったのか?」を知らない場合、写真の「解釈」は俺にとって難しいものになる。
一度でも会話した事のある他人のそれならば、ある程度の目線というか「共感」と呼ばれる同化を図ることで、「切り取られた一瞬」の空気みたいなものを、クチから出した湿る指先の涼しさ程度には感じられる。
意図して描かれた絵画とは違い、その配置や構図の中に「狙い」「言いたいこと」があるのかどうか、よく分からないからだ。
(森山大道のドキュメントを観た時も、なんかファインダーも覗かず都会で適当にカシャー、カシャー、で現像したら、あ、、超カッコイイ、、みたいなのいっぱいあったし、感覚のものなのかな?とか。または、そのラフさこそが技法の可能性もあるし、ファインダーなんて覗かなくても経験則から大体分かるようになるもんだよって噂も聞いたことあるし、、)

とは言え、そんな場合(作者と顔見知りなことなんての)はほとんど無いのだから、写真は自分にとって「まだあまりよく分からない分野」だと言える。
ので、大体は「何がどんな風に写っていた?」というディテールを見て、ここ行ってみてぇ~とか、すげーイカついピアス~とか物見遊山的なことを思うだけに留まる。

だが、被写体となっていた「ガールたち」に関しては別だ。
未だ火中深く、焼き栗となりて燻り続けている彼女たちとの軋轢については、
「ずっと黙ってたんだけどさぁ、、」
を皮切りに飛び出すさながら劣化ウラン弾的言葉の、半減期は十億年、
「代わりの男なんて、いくらでもいるんだから」や、「あの人に比べて、あなたは、、」
という足元崩しに始まり、
170センチ以下は人間じゃないから()
などの絶対攻撃に至り、未だ我が懐中にトラウマという名のミミズ腫れをリヒテンベルク図形の様に這わせ続けているのである。

とは言え、そんな人道爆撃にコンプレックスシェルショックになりながらも、さながら南国、雄大な自然と天真爛漫で温帯な気候が育んだ瑞瑞しい果実の様にトロピカルな彼女たちを植民地化してやりたい。というデザイアを抑えることもできず、未だその君臨を許し続け、次は勝てるんじゃないのか?と無謀な戦を挑み、国力をジリ貧とさせ続けているのが自分であり、幾割かの男というものだろう。

どうしても他者との付き合いの中で、無意識に「勝ち目」を探してしまう事がある。
特に地獄の底への鍵さえも担うケルベロス的ガールたちに接するに於いて、それは顕著だ。

予てからそれは、知識であったり、所有であったり、立場であったりといった肉眼では確認できない、会話の端々での観念的ジャブを繰り返しながら小出しに確認し、棒で藪を突つく様に安全圏を確保しながら、粛々と行われるものであった。

しかし、平素水面下で行われていた冷戦も、今回の展覧会では通用しなかった。
彼女たちが読んでいるのは、どんな本で、どんな物を集め、どんな暮らしをしていて、果たしてそれは俺に「分かる」ものなのか?
という事が、その「部屋」を垣間みることによって(端的にせよ)具体的に分かってしまう上に、所有者たる当人もそこに座っていたりする。
(かつ、大体はそこそこ可愛いし、どこか大胆で行動的なスケールのデカい進んだ人生を送ってそうだし、それでいてキレた途端にヤンキー口調に豹変し、テメェキンタマツイテンノカヨーー!とか言ってスネ蹴っ飛ばしてきそうなワイルドさも併せ持ってそうだし、、)

とにかく逃げ場がないのだ。情報量が多過ぎる。
となると、無意識に本棚に目を向けている自分に気付く。
わかるか?知ってるか?勝ち目はあるのか、、

そんな胃に悪い展示にふらついていたら、ちょうど写真家の都築響一さんとニアミスしたので、作家との話を盗み聞いた。

「サブカルは、アングラに勝てない」
脈絡なく、その言葉だけがスッと入ってきた。
彼女らや作家の創作物がそうだと言っているのではない、この場合でのサブカルとは、知識や所有、アングラとは思想や創作、行動の暗喩である。

所有では彼女たちには追いつけないのだ。
サブカルを制圧するためには、アングラ側、発話者側、彼女たちの瞳のその先へ仁王立ちするしかない。
それに思い至ることで、戦火に焼かれた灰色の田畑に仄かな勇気の萌芽を感じながらも、
いずれにせよ、まだしばらくは敗け続けることになりそうだな。


と暗渠たる気持ちを抱えながら、ファルス(スカイツリー)地下に潜り、帰宅。



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