2017年1月16日月曜日

エレファントノイズカシマシ、ファーストアルバムの発売にあたって、
東京藝術大学音楽環境創造科の田中志遠さんが、解説を書いて下さっています。

発売は2/15、予約も始まってるんで、是非〜〜
http://diskunion.net/avant/ct/news/article/1/63831






















多くのノイジシャンがそうであるように、今や「築城系雑音演奏集団の原点にして頂点」
と称されるエレファントノイズカシマシ(以下ノイカシ)の真骨頂は、ライヴだ。
空間を構築し、半ば観客を巻き込む彼らのスタイルには、確固たる、
しかし流動性のある思想が宿っている。

「まあ参加型っていうと単純なんですけど、もちろん演奏者の反対側からも音はするし、
僕らが演奏するってよりは、その場の状態を楽しめるようにしたいなっていうのがあって。
だから、そこでやるべきことは何だろう、って考えることのほうがメインになりましたね。
こういう音を出そうっていうよりは、ここで出すべき音はなんなんだろうとか、
ここでの立ち回りはどうするべきなんだろう、とか。
点を置いていく作業みたいな感じ。最終的にそれが格好よければいいだろう、みたいな。」
(ZINE「アレ」より、片岡フグリ)

正直なことを言うと、僕はノイズのCD、記録物などは、
特に近年のものはあまり好きではない。
Youtubeの「Noise Music Channel」なんかを聴いてもらえれば分かると思うが、
例えばハーシュの音源とか、どれを聴いても大差なく思えてしまう。
(トラックごとに「あ、この人のこだわりポイント、ここかな?」
というのは随所に見受けられるが。)
記録メディアというのは、伝達のためのひとつの手段である。
そして、記録されると同時に、被記録物の持っていた風景は並列され、死に、
過去のものとなる。
ノイズと隣接している分野の一つに、フリーインプロヴィゼーションというのがある。
ノイカシも高栁昌行に大きく影響を受けているが、その分野においては、
演奏単位、ライヴ単位で録音されるというのはよくあることだ。
僕も彼らがアルバムを作ると聞いたとき、演奏主体で活動しているノイカシは
ライヴレコーディング的な比較的無編集の手法を使うものとばかり思っていた。
が、見事に裏切られた。日々のライヴで演奏の面白さをあそこまで出しておきながら、
 こいつらは完全に録音と編集を楽しんでいる。

このアルバムトラックは、テープ録音からデジタルによるマルチトラックレコーディング、
音響処理といった、音声記録の技術史的な時系列順に構成されている。
彼らもそう説明してはいるが、これはノイカシ自体の今までの歩みとも連動している。
元々典型的な、集団投射バンドだった彼らは、
数回のメンバー入れ替えやイレギュラーとしか言えない状況でのライヴたちを経て、今の形へと至った。
その軌跡はパート単位でのセッションを軸に、空間音響的表現へと拡大している。
インタビューでも言及されているが、近年のノイカシの活動にはジョン・ケージの思想が前面に反映されている。しかしそれはケージ思想の体現、という「現代音楽」的な形ではなく、
思想の「都合の良い」搾取、そして根本に据える演奏形態とアウフヘーベンした末なのである。
時代遅れなただの五月蝿いバンドではない。全く同時代的な、先進的なパフォーマンス集団とさえ言える。
そう考えると、このアルバムは「何を記録すべきか」即ち「何を記録によって殺すべきか」を突き詰めたアルバムだと言えよう。彼らの演奏史、長いスパンでみた「演奏単位」をトラックごとに記録、
その風景を殺し、再構成し、またはエッセンスを継承し、未来さえ予感させてしまう。
”DISCOVERY”においてノイカシは、「記録による死」をも利用し、
生き生きとした作品に仕上げてしまったのだ。文字通り、記録物という場を楽しませにかかっている。
かっこいいじゃないか。

ノイカシは、何十秒、何分、何十分、という短い時間を使って、マクロな「演奏単位」を示している。
そして、音質 劣化によって時空を分断された単線的な表現から、
「演奏」を保持しつつポップなアンビエントサウンドをも包摂、拡大し、
ノイズという場所を「開い」ている。
その勢いのまま、グローバル世界の大きくて強いうねりさえも、自分たちの演奏に回収してしまうだろう。
場所に耳を凝らし、場所を乗り越え、支配する。
「エレファントノイズカシマシ」これこそがノイズだ。
彼らは、ここからどんな場所へ向かうのだろうか。

文責 : 田中志遠

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