2018年12月27日木曜日

夢の島の二階 ファースト録音盤『わたしたち』解説


北海道のバンドと聞けば、かつてNUMBER GIRLが解散ライブの聖地とし、
その際のMCで向井秀徳氏が言及・列挙していた数多の、
真空管の熱で暖を取りながら個的内省を繰り返し、雄大な北の大地に裏腹な、
過剰とも言うべき轟音を爆発的に美しいメロディーで奏でていた伝説的バンドたちを、
どうしても自分は思い出してしまう。
しかしながら、彼らの音源を一聴させて頂いた時に一抹の郷愁と共に連想した土地、
それは遠く離れた「大阪」であった。拍子抜けと共に混乱したが、
聴いていく内にその理由が見えてきたので、以下にそれを記す。 さかのぼること10数年前、
大阪を中心に関西ゼロ世代というというムーブメントが起こった。
細かい詳細はここでは控えるが、
差して囁かれた「ボアダムスの子」というキャッチコピーが、
日々新奇なものを追い求める青春時代の自分に鮮烈な印象を与えたことを覚えている。 この運動の象徴的な点の一つとして、
中心的バンドであったオシリペンペンズに(恐らく)始まり、
熱心なリスナー・コレクターを産んだ(自分もその一人である)、
コピー用紙に手描きした白黒ジャケットに、CDRを挟み、
それをホッチキスで綴じただけの、
よく言えばミニマル、悪く言えば雑、
スタジオの一発録音をそのまま商品として売っていた。と言っても過言ではない様な、
整音・パッケージングというデザイン・流通プロセスを放棄したが故の、
アイデア、及び熱量を、そのまま形にするというスピード感を備えた作品が大量に生産された。(興味のある方は、不滅の名盤である、オシリペンペンズの「猫が見たライブ」をぜひ手に取ってもらいたい。)
そしてそれらは、東京・高円寺にある自主音源専門店「円盤」をアンテナショップに、
全国よりどことなく似た匂い=大阪的な、を放ちながら集結した。
(とは言え、条件として「本人が」納品することが定められており、店長自身による商品たり得るか?という、ある程度の精査は行われる) それは、山塚アイ氏が行っていた様な、
初期〜中期のボアダムスが持っていた無国籍で文字通りのフリーなミュージックスタイルや、一名義一アイデアで多種多様なジャンルでのライブ・リリースを展開する、
というバイタリティの影響であり、前述のコピーはここへと繋がる。
(また、ボアダムスの結成が大阪を中心としていたことも大きな影響を与えていたであろうことは言うまでもない。) これは技術の進歩・大衆化により、
良くも悪くも誰もが録音・発表が出来てしまう恵まれた環境に裏打ちされたものではあったが、
そういった即効性のあるアイデアをムーブメントの一端としてアーカイブすることに大変適していた。 もちろん、推して知るべしな見た目通りの完全に低クオリティな「ハズレ」も多かったが、オンライン、配信・ストリーミング以前の、
一応は「モノ」として作品が生産されたことには大きな意味があり、
集まったそれらには、完成度云々以前の「何か」があった。
(円盤の田口店長も販売の選考基準をそこ、つまりその「何かを感じるか」に置いていたと聞いたことがある。) 長々と語ってしまったが、自分が彼らの音楽に感じた「大阪」は、
地域としてのそれではなく、そんなかつてのムーブメントの代名詞としての「大阪」だったのである。 とは言え、現在に至るまでにその狂乱は代表格であるミドリのメジャーデビューや、
上記した更なるスピード感を備えた配信サービスの充実などを機に飽和を迎え、
いつしか衰退し、その後の活動も知れなくなったバンドがほとんどである。 ここで、勝手な憶測をすると、「夢の島の二階」というその名が示唆するのは、 終息し、(CDRであるが故に)今となっては再生も敵わず、
顧みられることも無くなったかつてのムーブメントの累々たるゴミの集積、
東京都江東区に存在する高度経済成長の暗部、
それを「夢の島」と呼んだアイロニーを汲んだ「終わった」ものの再生産。
そんな被虐めいた表明にも聞こえる。 しかしながら、彼らが居住するのはその「二階」なのである。 玉石混淆のゴミの山、時を経て(現在の夢の島の様に)ならされた土地に建てられたその「二階」に、彼らは君臨するのである。 その建築がこの先、どの程度の規模になるのかは知る由もないが、
そこが日の当たる場所であることは確かだ。
「北海道」という土地からこういったバンドが出てきたこと、
そして全国流通盤を世に問うことの意義は大きい。

2018年11月22日木曜日

ELEPHANT NOIZ KASHIMASHIは、完全スタジオ録音のダウンロードコード付き新作音源「ENZKMS(PTK-006)」をqujakuとの東名阪ツアーに合わせた2018年10月13日に、拙レーベルPHETISH/TOKYOよりリリースした。
今回我々がその媒体に選択したのは、「石」である

ELEPHANT NOIZ KASHIMASHI 「ENZKMS」(PTK-006)


同レーベルの旗揚げとして2017年初頭にCD媒体で発表した前作(録音は2016年末)「DISCOVERY(PTK-001)は、多摩美術大学での結成と小林くんとの二人時代から、メンバーの加入脱退を経て現体制へと至るおよそ5年間の過程を、我々の演奏形態、そしてその向上を録音技術の進化となぞらえ、また一つの区切りとしてパッケージングし収録した全5曲のベスト盤的内容となっていた。

※「DISCOVERY」に関してはここに詳しい。

前回の製作から現在に至るまで、「ノイズ」の「録音」に関してやや懐疑的であることに変わりはないが(絶対にライブの方がカッコイイという自負もあり)、過去に行っていた、空間そして現場そのものを即時的に感知しながらの演奏というスタイルから、リズムを取り入れ、楽曲構成がある程度固定された最近の演奏への移行を経て、その意識はやや軟化し、「今のノイカシ」を定期的に「記録」し表明しておくことへの必要性は大きく感じるようになった。故に昨年はライブ盤CDを数枚「BOOT」シリーズとして発表した。
ENZKMS/LIVE/BOOT/4(PTK-004)

今回のリリースにあたっての話し合いの中で、当初は録音データをすべて解放し、個々の音をそのまま収録したファイルと、お手本とも言えるミックスデータを同梱したものをプレートや、セルフインタビューを掲載した新聞紙大の紙媒体でリリースするという案もあった。
そこには、素材(楽器・非楽器問わず)とアイデアの集積である現在の我々を一度解体し、聴者に(勿論自分も含めた)それを委ねることで、新たな何かが産まれるのでは無いか。という思惑があったが、取捨選択し構成が練られた演奏を行っている今にはそぐわない。という判断がなされた。


やや脱線するが、「ノイズ」に於ける音の選択とは何かについて、少し話をしよう。
前回の記事で自分は「世界をミュートしない」と宣言したが、そこで記した感情的な側面以外に、ノイズや即興の演奏に於いてしばしば提唱される「聴覚の拡大」というコンセプトがある。簡単に言うと、会場の空調や外を走る電車などといった環境音は勿論、ふとした瞬間にコップを倒した観客の出した音さえも「平等」に処理し、楽曲構成に取り入れるという考え方だ。
なんともピースな思想に聞こえるが、実はそこには残酷な精査が隠されている。
全ての音を平等に扱うということは、「要らない」と判断される音も圧倒的に多くなるということ、そしてミステイク(存在しないとも言える)もやり直しも認められないということにもなる。

ライブが始まった以上、よほどのことが無い限り、演奏は30分間終わらせることが出来ない。機材の特性上、思った時に狙った音が出ないということはまま有ること(ハンドメイドの楽器を使用している以上、突然の不調に至ることも稀にある)で、それさえも受け入れながらバンドを最終的なカタルシスへと辿り着かせることは意外に神経を消耗することなのだ。勿論、そうした思想を根底に置きながら長年演奏を、そして切磋を繰り返してきたことが、現在の我々を作っているとは言えるだろう。






さて、では何故今回、リリース媒体として「石」を選択したのかという話題に移ろう。
前述した通り、現状の「記録」として音源をリリースする以上、「完成系である」として作品を発表することはしたくなかった。(とは言え、スタジオ録音を行う以上、前述したBOOTの様なCDRでは心もとない)故に今回、「形が固定されていないモノ」という観点からのリサーチを行い、切削の際に出た形状がそれぞれなコンクリートやタイルの歯切れなどが候補に上がったが、あまりに直接的過ぎるのと、並べた際の美的景観からもある程度の均一性は必要であるという結論に達した。
(媒体が何らかの「重みを持った」モノである必要性については後述する。)

そこで、前述したコンセプトに今一度立ち戻り、今は固定された形ではあるが、「変わる」可能性があるものでもいいのでは無いか。という発想の転換から「彫刻石」が浮上した。



一点、断っておきたいのだが、自分はCDというメディアが、巷間で囁かれている様に既に終わったもので、もはや価値を持たなくったとは思わない。上記のインタビューでも語っているが、我々は、いや少なくとも2000年代初頭に青春を過ごした自分にはデータを抱きしめられる価値観を有するのに今暫しの時間を要するであろうし、PHEITSH/TOKYOというレーベルのコンセプト(produceされたphenomenonとしてのfetish)としても、公的なリリースは「モノ」である必要がある。

しかしながら、ベスト盤としてCD媒体でリリースした前作の次回作としてリリースすることを踏まえても、今作を規制のパッケージングへ落とし込むことへの危惧があり、故にプレスCDとしてのリリースは最初から念頭に無かった。
それは、現在の我々の演奏へ自分が抱いていた一抹の不安にも繋がる。

正直なところ、現在の我々のスタイルの様に、ノイズにリズムを取り入れ、そして構成をフォーマット化してしまうということは、アイデアの可能性を狭め、最終的にはバンドの寿命を縮めることになってしまうのではないかという懸念が個人的にはあったのだ。






だが、それをメンバーに吐露したところ、
「我々は日々確かに変化している。そんな心配は恐るるに足りない」
といった意味のことを言われ、同時に「我々はまだまだ削れるし、まだ見ぬ形を磨き上げ成形していける」という自信を彼らの言葉から受け取り、「彫刻石」という素材は大きくここに合致するということを確信した。

勿論、それ自体は、ネット通販などでおおやけに販売されているものなのであるが、バンドのロゴを表面に銘記し、楽曲のダウンロードコードを添付、そして価格を1500円という一般的なミニアルバムの値段に設定することで、削れなくはないが、実際のところは彫刻石としての有用性がある程度失われることになり、携帯するには大きく、装飾品として身につけることも出来ず、もちろんCD棚に仕舞うことも敵わない一つの異質な「モノ」として、しかし確かな重みを持って、音源データがダウンロードされ「媒体」としての役目を終えた後も存在することになるのではないか。

そしてそれは「完成形」ではなく、我々の一つの「到達点」を示すマイルストーンとして、「過去」のある定点として将来的にも置かれる筈だ。
何故なら、リリースから一ヶ月を経た今、バンドはもうそこには居ないからである。

我々は今日も削り、ともすれば叩き割り、形を変えながら前進を続けているのである。


最後に、録音と編集に渡り(幾度の校正にも)携わってくれたTakaaki Katsuyamaさん。
毎度のライブ映像、並びに今回の録音風景の撮影も行ってくれた白岩義行さんに、この場を借りて改めてお礼を述べたい。

いずれにせよ、続きは現場で。
そここそが、いつも最先端なのだ。





ELEPHANT NOIZ KASHIMASHI「ENZKMS」は以下のサイトからご購入が可能です。

“Reconquista"
"FILE-UNDER RECORDS”



ELEPHANT NOIZ KASHIMASHI LIVE SCHEDULE

11/26 渋谷Seventh Floor 19:00〜 ¥ 1000
w/すずえり&kaz SAITA/シシヤマザキ
DJ/脳BRAIN/biki
12/4 西永福JAM 19:00〜 ¥ 2400
w/つしまげる / ゆーの / ゲスバンド 
12/7 小岩BUSH BASH 19:30〜 ¥ 1800
w/田島ハルコ/碧衣スイミング/BOKUGO(浜松)/小川直人
12/16 渋谷RUBY ROOM Ray#3 19:00〜 ¥ 1500
w/The Loyettes/ermhoi
O.A. VAMPIRE✞HUNTER™
12/23 神楽坂神楽音 18:00〜 ¥ 2500
w/MAMMOTH/BBBBBBB/ロクトシチ/とうめい都市/Pot-pourri

MAIL/phetishtokyo@gmail.com


2018年10月23日火曜日

片岡フグリ「LOVE IS OVER IS OVER」


先月9月28日にPHETISH/TOKYOから、ソロではおよそ1年半ぶりに6曲入りのアルバムを出した。タイトルは「LOVE IS OVER IS OVER」、愛は終わったの先のさき。
今作はミックスとマスタリングをヒソミネの頃(2014年くらい)から時折PAを担当してもらっていたTakaaki Katsuyamaさんに「僕、やりますよ」とメールを頂き、是非!と手掛けてもらった。ちなみに前作のジャケットはいつも映像でお世話になっている(今回も)、白岩義行さんに撮ってもらった。
片岡フグリ「self」

作品について


制作に於いて誰かの手を借りるというのは、作品を世に出す以上、ごくごく一般的なことだ。フリーでライブのフライヤーやCDアルバムのジャケットデザインを引き受けている自分も、その一端を担っている。
だが、自分の場合、ソロに関しては録音、編集、デザインといったほとんど全てを一人で手掛けてきた。それはもちろん「こだわり」という側面が大きくあったが、一抹の「怖さ」があったというのも正直なところだ。
奏でども奏でども人気が出ず、とあるライブハウスの方からは「あなたには人間としての魅力がない」とまで言われ、自信を失くしていた時期が長い間、本当に最近まで続いていた。それでも辞めなかった、いや、辞めれなかったのは自己表現としての音楽、もとい弾き語りをアイデンティティとすり替え、生きていてもいい自分を巡る聖戦としてしまっていたところが少なからずあったからだ。だからこそ、作品制作=責任はすべて自分で取るという大義名分を掲げ、心を他人に見せる怖さから目を背けていた。
しかしながら、聴く人観る人にとってはそんなことはどうでもいいことだし、もし自分自身が「魅力」所謂「人間力」を持っていないのであれば、パーソナルな場所から一歩離れた感覚で普遍的な楽曲を作り、徹底的に練習し磨き上げたそれを丁寧に届ければいいだけの話。
そこで昨年末くらいからのライブでは、過去の様にひたすら全身全霊を込めるというやり方を控え、より「歌」を、そして人を意識して演奏する様になった。相変わらず人生は戦いだが、狂気だけでは音楽は届かない。
同様に楽曲のミキシング(音の編集作業)も、俺よりその工程を理解しているプロにお願いした方が絶対に良いに決まっている。なので、今回の制作にあたってkatsuyamaさんから声をかけてもらえたのは絶好のタイミングで、今までの作品と比べても音の風通しは(俺自身がやるよりも)圧倒的に良くなったと思うし、人のミックスを前にして、初めて作品を、そして自分を客観的に見ることができた。
そして何より、(白岩さんの映像や、ずっと作品を買って聴いてくれている方を含め)こうして人が関わってくれている以上、自身がないなんていつしか言ってはいられなくなった。

演奏について


片岡フグリは「間のある歌モノ」と自分自身を評し、キャッチコピーとしている。
過去の演奏では、ケージや能、ギタリストの杉本拓さんやバンドのteasiに影響を受けた、それこそ露骨に「間」のある演奏をひたすらに行っていた。
鳴らすべき完璧なタイミングを耳、そして全身を凝らして待ちわび、空間へ音を置いていく。ハマった際の快感は何物にも代えがたい体験であったが、自分の場合、否応なしにそれは楽曲の犠牲を意味していた。
例えば、過去のあるライブで4分ほどの楽曲を演奏するのに7、8分程かかったことがある。差し引きの3~4分は「間」である。
これを前にした観客は一体何を持ち帰るのか。緊張感と身体性が相俟った「体験としてのライブ」といったインスタレーション的な何かを手にとってくれていれば良いが、一般的なリスナーの範疇では「よく分からなかった」と思われていたことは避けられず多々あった事だろう。
勿論、それも一つのやり方で、形式として決して間違っていたとは思わないし、そのやり方を極めるところまで研ぎ澄ますという道もあった。しかしながら「歌手」を標榜している以上、楽曲を不憫に、そして歌を聴きに来てくれているお客さん(自分のファンではない方だったとしても)を遠くに扱うのはいかがなものだったであろうか。
と言うか、長い間それを続けてきて成功しなかったんだから、(もし違った何かを求めているのなら)やり方を変えてみたら?観ている側の自分ならそう言うだろう。
しかし、難解を個性と置き換えることに甘んじていた為に、こんなにも長い時間が掛かってしまった。
そこで、今回のアルバムを作るにあたって、前述した様に、昨年末くらいからライブの形式をガラッと変えた。
4分の曲は4分で。7分ある歌は7分かけてじっくり演奏する。力を入れ過ぎることなく、壊さない様に、歌う。それに伴って出来てくる楽曲も変わってきた。「最近、曲になったね」と不思議なフレーズを言われることが増えたのもその頃からだ。



では何故、方向を転換した今もなお、「間のある~」というフレーズを標榜し続けるのか?
自分が敬愛する作家に志村貴子さんという漫画家がいる。彼女の漫画は、どこまでも優しい。
しかし、それは柔らかく人当たりのいい登場人物が登場する「優しい世界」が醸す癒しに依拠するのではなく、徹底した彼女の人間(登場人物)に対する「目線」に由来する。
近年の傑作に「淡島百景」という歌劇学校を舞台にした少女たちの群像劇があるが、ここには現実世界同様、いいやつも、カリスマも、そして嫌なやつにも、それぞれが生きている人生がある。(故に、前述の全てに”誰かにとっての”という前置きが付言する。"誰かにとっての"嫌なやつ)


何かに失敗した人間がフェイドアウトして表舞台から消えていく様は、SNSを筆頭に日夜あらゆる場所で繰り返されているが、(当たり前のことだが)それでも彼ら彼女らには続いていく日々がある。或いは、意図的に誰かを失脚させる引き金を引いた者も、取り返しのつかない後悔を抱え、残酷なまでに抜けられない罪と罰の毎日をそれでも生きていくしかない。
そんな人々に手を差し伸べたり、安易にチャンス与える神にもならず、ただ「見届ける」という目線が彼女の作品にはある。
そんなスタンスで音楽を作っていけたらと思うのだ。
世界をミュートしないこと。
そうして、悲しいばかりのあの日々や無駄に思えてしまった年月を黒く塗りつぶさず、「余白」としていつしか受け入れていくこと。
それがいま俺が思う「間」である。

「LOVE IS OVER IS OVER, 形を変えて続くのです。夢も日々も、多分、愛も。(片岡フグリ/LOVE IS OVER IS OVER)」



とは言え、今やっていることが、そして自分がこれからどうなっていくのかは分からないし、どうしようもない朝も割り切れない葛藤も逡巡も、否応なしにそこら中にある。自身のない自分も、まだずっとそこに居る。
けれどいつか、そんな「間」を受け入れて、出来ればもう少し愛せる自分と、世界を創り出せていければいいなと、今は思っている。




片岡フグリ「LOVE IS OVER IS OVER」はPHETISH/TOKYO公式サイト
または、オンラインショップ「レコンキスタ」FILE-UNDER RECORDSからの購入が可能です。





2018年5月26日土曜日

「アンビエントする空間 ~『表乾』開催に寄せて~」






6月20日に「間のある歌モノデュオ」こと『ツラネ』と俺、片岡フグリの共同で『表乾』という変わったタイトルのイベントを開催する。
場所は、東京、八丁堀にある『七針』というスペースだ。アクセスは少し悪いが、余計な装飾や照明の無い、今回のイベント趣旨に合ったベストな空間として、ここをお借りすることに決めた。

ゲストにお呼びしたのは世界的和モノ電子アンビエントの名手『SUGAI KEN』さん。
昨年Visible cloaks来日の際、マジ失神すんじゃねーかってくらいの超アクトに大感動した思いの丈をお伝えすると、快く出演を承諾して下さった。






さて、「アンビエントする空間」なんて大それたタイトルを付けてしまったが、個人的なアンビエントへの見解、表乾の意味や今回のイベントの趣旨を訥々と語っていけたらと考えている。それでは、暫しのお付き合いをよろしく。


まず、俺個人の最も鮮烈な「アンビエント体験」として語っておきたいのが、今年一月にイベントの開催場所でもある七針で拝見した『chihei hatakeyama』さんのライブについてだ。
ご存知の方もおられると思うのだが、SUGAIさん同様、世界的に有名な、こちらはギタードローンアーティストの方で、まさに「啓示」「福音」とも云うべき体験を俺はそこでする事となった。




話題は少し逸れるが、アンビエント(ここではライブ演奏に絞ってお話しをする)のひとつの見方、聴き方として、そういった音楽にあまり触れることの無かった皆さんにお勧めしたいのが、「ちょっと寝る」である。どういうことかというと、読んで字の如く、ちょっと寝るのだ。

なんとも間の抜けた表現となってしまうが、これが割と面白くて、できれば横になって見れたらベストなんだけど、公共の場ではそれも難しい。なので、できるだけ余計な情報の入らない、かつ安定した姿勢をとれる場所を確保し、演奏に身を委ねながら、ちょっと寝るのだ。

前述した様にライブ会場という他人との距離の近い、ある程度の緊張を強いる公共空間で熟睡するのは難しい。少し寝て、すぐ起きてしまう。でも、また少し寝てみる、起きる。を繰り返すことで、時間の感覚が怪しくなってくる。勿論、この間も演奏は続いている。

これを続ける内に、さっき考えていたこと、そしてそれがいつのことだったのかがよく分からなくなってくる。という、思考のタイミングや内容、時系列がいつしか曖昧になってくるという不思議な体験をする事となるのだ。

アンビエントという音楽の特性として、演奏の大きな緩急、また、明確な曲の繋ぎというものはあって無いようなものが多い。(ライブ一本でまるまる一曲が演奏されるという事もよくある)
そういった楽曲としての単位が明確に分けられたものでは無いからこそ、上記の様なちょっとした遊びを行うのに適しているのである。
(例えば、一般的な楽曲をその時々に集中を要する「点」だと仮定すれば、アンビエントは「線」であると思ってもらえれば判りやすい。hatakeyama氏も語っておられたが、だからこそ演奏にはある程度のまとまった時間が必要とされる)

時間の感覚が希薄になるこの現象は、「さっき考えていたこと」と「いま考えていること」の境界を限りなく薄くする。それによって両者を恰も等価なものに感じさせ、「線」としての時間を逆説的に意識させることになる。

これを拡大解釈していくことで、大きな流れの中で生きている(生きてきた)自分を意識し、今を、そしてあの日のことを、出来事としての「点」の集積ではなく、連なる一本の「線」として、理解し直すことが出来るのだ。(そして勿論、その線は未来へも繋っていく)

記憶の等価化現象。暫定的に「アンビエントする」とここでは呼ぼう。

前述した様に、永続するかとも取れる様な音楽だからこそ、この様な体験が可能となった訳ではあるが、勿論、それはなんでも良かった訳ではなく、身を委ねる水は美しければ美しいほど良い。
chihei hatakeyama氏の超上質な演奏に依ってこそ、判断力を鈍らせる酩酊感とも言えるそれを超え、昇華された一種神秘的とも言える体験を自分はすることが出来たのだ。

(馴れてくるとこの体験は起きたままでも看取可能となる。
大友良英氏が「MUSICS」で語っていた「音溶かし」
に原理としては近いかも知れない)


とは言え、自分のやっている弾き語りによる演奏は、前述した様な所謂アンビエントでは無い。(曲という「点」を強く持っており、大きな緩急も擁している)
しかしながら楽曲や、詩によるアプローチから「アンビエントする」ことを一つの目的としている。(というか、氏の演奏を拝見し、する事に決めた)





それはどういう事か?もう少し、これを詳しく説明しよう。

アンビエントが語られる際に必ず引用されるものにエリック・サティが提唱した「家具の音楽」という概念があるが、
(サティの思惑はBGM化する音楽への懸念とアンチテーゼとしてのものだったそうだが、ここではそのコンセプト(家具のように、そこにあっても日常生活を妨げない音楽、意識的に聴かれることのない音楽)のみを拝借する。以下に詳しいので興味のある方は一読下さい。

「家具」とは日々に於いて、意識されることは無いが、あった方が良く、暮らしをより豊かにするものである。
人間にとって、普段は意識下に埋没しているものの、あった方が良く、暮らしを豊かにするもの。
それは「思い出」である。

「アンビエントする」とは、ただ単に過去のアルバムを紐解き、過ぎ去った時代を主観的に「点」として懐かしむのではなく、ある程度の客観を持って、己の系譜を「線」として俯瞰することにその目的がある。そこには良いも悪いも無い。なぜなら「思い出」はそこでは等価なのだから。

とは言え、どうしたって「アンビエントする」は個的な体験に終始するので、個人的に好きにやってればいいじゃ無いかという意見も理解出来る。
だが、あった方がいい/否応ナシにあってしまう「思い出」は、(良きにせよ/悪しきにせよ)誰しもが持っているもので、その感情のプールは思いの外大きく、普遍的なものであると自分は信じている。

だからこそ、「ライブ」そして「箱」という特殊な空間の中で、交わる事の難しい初対面の人間や、顔見知り程度の個々人と共にその大きなプールへ一瞬でもアクセスすることは不可能なことでは無い筈で、そしてそれはとても有意義なことであり、それが故に自分は人前で演奏することに大きな意味があると思っている。

そのプールへ向かい「アンビエントする」為に自分は「思い出」を歌い、アンビエント的楽曲では無い方法で、ウェットなそのグルーヴを観客と共有することを志向している。
(そうすることで、「回想法」の様なセラピー的効能を狙うことはその目的では無い。
ただそこへ至ることが自分の現在の目的である。
とは言え、「恥の多い生涯を送ってきました」とペシミストを気取るつもりは無いが、自分の様な後ろ向きな人間にとって、上記の様な思考に至り、ある種の自覚を持って過去を、そして未来を捉えることが出来るというのは、ある種の救いではある)



ここでイベントタイトルの説明をしよう。
「表乾」とは、表面は乾き、水の付着は見られないが、内部の間隙は水で満たされている状態を指す建築用語である。(このタイトルはそちら方面の業界人、にこげ氏(ツラネ)発案のものである。)

乾いたもの(個人の表層)は交われない(または難しい)が、濡れたもの(内面)は混ざり合うことが出来得る。という思いを自分はここへ(勝手に)宛てている。

最後に、今回のイベントの開催場所として『七針』を選んだ理由についても触れておきたい。

冒頭に述べた様に、そこは照明や内装に関して余計な装飾が省かれ、バーカウンターといった余計な雑音の入る余地を排した特殊な地下空間となっている。
「音」や「歌」に身を委ね、内面のプールへダイブする場所として、これ以上の空間はなかなか無いであろう。2,30人も入れば満員となるキャパシティも適度である。

梅雨真っ盛り、湿度に満たされた物理的にもウェットな『七針』で「アンビエントする」空間を少しでも表象することが、今回のイベントの趣旨であり、目的である。

皆様のご来場を心よりお待ちしている



片岡フグリ×ツラネ共同企画『表乾』


6月20日(水) @八丁堀七針

¥ 2000(飲食物の持ち込みOKです)

OPEN 19:30/START 20:00


出演/片岡フグリ/ツラネ/SUGAI KEN



片岡フグリ

1990年4月6日生まれ、多摩美術大学卒業、兵庫県西脇市出身。

ELEPHANT NOIZ KASHIMASHI、COMPUTER GRAPHIX、otopoyecisなど数多のバンド・ユニット活動と共にレーベル、PHETISH/TOKYOを主宰。同レーベルのデザイナー、アートディレクターを務める。
また、怪談イベントのプロデュースやエレカシトーク、アートイベントへのゲスト出演など、その活動は多岐にわたる。

ソロでの歌手活動では、声とギター、そして空間の全てを演奏する。











ツラネ

2014年結成 。gt担当山﨑熊蔵(kumagusu)、vo&noise担当にこげ(どろうみ)。極限まで削ぎ落とされた音数により構成された楽曲。その隙間から透明な歌声とノイズを紡いでいく。 「喪失と創造」をテーマに掲げ、活動中。ELEPHANT NOIZ KASHIMASHIとのコラボ等も行う。








SUGAI KEN

日本の夜を想起させる独特なスタイルを軸に、国内のコアな俚伝を電化させる事に傾倒するトラックメーカー。
最新作『てれんてくだ tele-n-tech-da』がDiscrepant(UK)からリリースされたばかりだが、現在国内外からオファーが殺到しており、複数のタイトルリリースを控える。
前作『不浮不埋 UkabazUmorezU』では国際的な評価(Pitchfork等)を獲得。2016年作『鯰上 On The Quakefish』はリプレスも完売。
日本屈指のレーベル〈EM Records〉からの作品『如の夜庭 Garden in the Night (An Electronic Re-creation)』により世界中のコアなリスナーとコネクト。
LOS APSON?の2014&2016&2017年間チャートに作品がそれぞれランクインし、Fabriclive(UK)への楽曲提供も行った。また、BBC Radioの複数の番組にて楽曲がオンエアーされている他、NTS Radioにて頻繁に曲がプレイされている。
Solid Steel(Ninjatune)シリーズにRob Boothを唸らせた不思議なmixを提供し、年始にはHessle Audioへも奇特なmixを提供。
先日のEUツアー(by RVNG Intl.)ではCafe OTO(UK)公演がsold outになる等、注目度の高さをうかがわせ、全13公演(6ヶ国)にてその独自性を遺憾なく発揮した。
(ツアー期間中、Worldwide FMにてインタビューも収録。6月に放送予定)
尚、現行シーンでの活動と並行し、国内の郷土芸能アーカイヴプロジェクトに複数携わる等、亜種な活動を兀兀と展開中。