2018年10月23日火曜日

片岡フグリ「LOVE IS OVER IS OVER」


先月9月28日にPHETISH/TOKYOから、ソロではおよそ1年半ぶりに6曲入りのアルバムを出した。タイトルは「LOVE IS OVER IS OVER」、愛は終わったの先のさき。
今作はミックスとマスタリングをヒソミネの頃(2014年くらい)から時折PAを担当してもらっていたTakaaki Katsuyamaさんに「僕、やりますよ」とメールを頂き、是非!と手掛けてもらった。ちなみに前作のジャケットはいつも映像でお世話になっている(今回も)、白岩義行さんに撮ってもらった。
片岡フグリ「self」

作品について


制作に於いて誰かの手を借りるというのは、作品を世に出す以上、ごくごく一般的なことだ。フリーでライブのフライヤーやCDアルバムのジャケットデザインを引き受けている自分も、その一端を担っている。
だが、自分の場合、ソロに関しては録音、編集、デザインといったほとんど全てを一人で手掛けてきた。それはもちろん「こだわり」という側面が大きくあったが、一抹の「怖さ」があったというのも正直なところだ。
奏でども奏でども人気が出ず、とあるライブハウスの方からは「あなたには人間としての魅力がない」とまで言われ、自信を失くしていた時期が長い間、本当に最近まで続いていた。それでも辞めなかった、いや、辞めれなかったのは自己表現としての音楽、もとい弾き語りをアイデンティティとすり替え、生きていてもいい自分を巡る聖戦としてしまっていたところが少なからずあったからだ。だからこそ、作品制作=責任はすべて自分で取るという大義名分を掲げ、心を他人に見せる怖さから目を背けていた。
しかしながら、聴く人観る人にとってはそんなことはどうでもいいことだし、もし自分自身が「魅力」所謂「人間力」を持っていないのであれば、パーソナルな場所から一歩離れた感覚で普遍的な楽曲を作り、徹底的に練習し磨き上げたそれを丁寧に届ければいいだけの話。
そこで昨年末くらいからのライブでは、過去の様にひたすら全身全霊を込めるというやり方を控え、より「歌」を、そして人を意識して演奏する様になった。相変わらず人生は戦いだが、狂気だけでは音楽は届かない。
同様に楽曲のミキシング(音の編集作業)も、俺よりその工程を理解しているプロにお願いした方が絶対に良いに決まっている。なので、今回の制作にあたってkatsuyamaさんから声をかけてもらえたのは絶好のタイミングで、今までの作品と比べても音の風通しは(俺自身がやるよりも)圧倒的に良くなったと思うし、人のミックスを前にして、初めて作品を、そして自分を客観的に見ることができた。
そして何より、(白岩さんの映像や、ずっと作品を買って聴いてくれている方を含め)こうして人が関わってくれている以上、自身がないなんていつしか言ってはいられなくなった。

演奏について


片岡フグリは「間のある歌モノ」と自分自身を評し、キャッチコピーとしている。
過去の演奏では、ケージや能、ギタリストの杉本拓さんやバンドのteasiに影響を受けた、それこそ露骨に「間」のある演奏をひたすらに行っていた。
鳴らすべき完璧なタイミングを耳、そして全身を凝らして待ちわび、空間へ音を置いていく。ハマった際の快感は何物にも代えがたい体験であったが、自分の場合、否応なしにそれは楽曲の犠牲を意味していた。
例えば、過去のあるライブで4分ほどの楽曲を演奏するのに7、8分程かかったことがある。差し引きの3~4分は「間」である。
これを前にした観客は一体何を持ち帰るのか。緊張感と身体性が相俟った「体験としてのライブ」といったインスタレーション的な何かを手にとってくれていれば良いが、一般的なリスナーの範疇では「よく分からなかった」と思われていたことは避けられず多々あった事だろう。
勿論、それも一つのやり方で、形式として決して間違っていたとは思わないし、そのやり方を極めるところまで研ぎ澄ますという道もあった。しかしながら「歌手」を標榜している以上、楽曲を不憫に、そして歌を聴きに来てくれているお客さん(自分のファンではない方だったとしても)を遠くに扱うのはいかがなものだったであろうか。
と言うか、長い間それを続けてきて成功しなかったんだから、(もし違った何かを求めているのなら)やり方を変えてみたら?観ている側の自分ならそう言うだろう。
しかし、難解を個性と置き換えることに甘んじていた為に、こんなにも長い時間が掛かってしまった。
そこで、今回のアルバムを作るにあたって、前述した様に、昨年末くらいからライブの形式をガラッと変えた。
4分の曲は4分で。7分ある歌は7分かけてじっくり演奏する。力を入れ過ぎることなく、壊さない様に、歌う。それに伴って出来てくる楽曲も変わってきた。「最近、曲になったね」と不思議なフレーズを言われることが増えたのもその頃からだ。



では何故、方向を転換した今もなお、「間のある~」というフレーズを標榜し続けるのか?
自分が敬愛する作家に志村貴子さんという漫画家がいる。彼女の漫画は、どこまでも優しい。
しかし、それは柔らかく人当たりのいい登場人物が登場する「優しい世界」が醸す癒しに依拠するのではなく、徹底した彼女の人間(登場人物)に対する「目線」に由来する。
近年の傑作に「淡島百景」という歌劇学校を舞台にした少女たちの群像劇があるが、ここには現実世界同様、いいやつも、カリスマも、そして嫌なやつにも、それぞれが生きている人生がある。(故に、前述の全てに”誰かにとっての”という前置きが付言する。"誰かにとっての"嫌なやつ)


何かに失敗した人間がフェイドアウトして表舞台から消えていく様は、SNSを筆頭に日夜あらゆる場所で繰り返されているが、(当たり前のことだが)それでも彼ら彼女らには続いていく日々がある。或いは、意図的に誰かを失脚させる引き金を引いた者も、取り返しのつかない後悔を抱え、残酷なまでに抜けられない罪と罰の毎日をそれでも生きていくしかない。
そんな人々に手を差し伸べたり、安易にチャンス与える神にもならず、ただ「見届ける」という目線が彼女の作品にはある。
そんなスタンスで音楽を作っていけたらと思うのだ。
世界をミュートしないこと。
そうして、悲しいばかりのあの日々や無駄に思えてしまった年月を黒く塗りつぶさず、「余白」としていつしか受け入れていくこと。
それがいま俺が思う「間」である。

「LOVE IS OVER IS OVER, 形を変えて続くのです。夢も日々も、多分、愛も。(片岡フグリ/LOVE IS OVER IS OVER)」



とは言え、今やっていることが、そして自分がこれからどうなっていくのかは分からないし、どうしようもない朝も割り切れない葛藤も逡巡も、否応なしにそこら中にある。自身のない自分も、まだずっとそこに居る。
けれどいつか、そんな「間」を受け入れて、出来ればもう少し愛せる自分と、世界を創り出せていければいいなと、今は思っている。




片岡フグリ「LOVE IS OVER IS OVER」はPHETISH/TOKYO公式サイト
または、オンラインショップ「レコンキスタ」FILE-UNDER RECORDSからの購入が可能です。





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