2018年4月20日金曜日

トークアバウト・エレファントカシマシ 後編



に引き続き、エレファントカシマシ、及び宮本先生への考察を深めて行こうと思う。

先に断っておきたいのだが、今回の文章は十作目『愛と夢』を一応の目処として纏めようと考えている。
理由は何点かあるが、本論はバンド、そして宮本先生にとっての「初期」エレファントカシマシとは一体、いつからいつまでを指すのか?を新たに提示するのがその主目的だからだ。

勿論、ファンの間ではデビューから最初の契約解消まで、
(一作目『THE ELEPHANT KASHIMASHI』 ~ 七作目『東京の空』)を節目に
「エピックソニー」時代と総称し「初期エレカシ」として括るというのが定説であり、筆者もそれは承知している。

レーベル移行に伴うサウンド、歌詞世界の変化、そして何より状況を一変させ文字通り栄華を極めた「今宵の月の様に」大ヒットに伴う華やかなりし時代周辺の諸作品を、前回ご紹介した『生活』といった音楽的、内容的にも極端に私的(且つ何より詩的)な作品、そして今回ご紹介する『5』『奴隷天国』などと一絡げに括るのは無理があるんじゃないかというご指摘は、何ら間違ったことでは無い。

しかしながら、敢えて筆者は『愛と夢』までを持って「初期エレカシ」をここに宣言したい。以下に、その理由を説いて行こう。
長くなってしまうかも知れないが、時折音源や映像を参照頂きながら、
お付き合い頂けると幸いだ。


さて、本題に入ろう。
四作目『生活』に於いて詩作の頂点を極めた宮本先生であったが、
2年のブランクを経て発表された五作目『エレファント カシマシ5』では、前作前々作と続いた文学調による「詩」を中心としたある種の「格調」を持った楽曲傾向はややなりを潜め、サウンドもロック的軽快さ(ギターリフへの回帰)をある程度取り戻し、伴う歌詞の内容も、より卑近なものへと変化を遂げている。

個人的な話になるが、この作品が一番好きだという方(主に男性)を筆者は何人も知っている。
かく言う筆者もその中の一人で、或いは「好きだった」と言うべきか。いや、出来れば「そう言いたい」と述べた方が正直だろう。
それはこのアルバムの冒頭「過ぎ行く日々」のイントロを聴き、詩を読んで頂けるとある程度の理解が出来るかと思われる。

「過ぎる日々よ、教えてくれよ。
この俺にも生活をどうか。
教えてくれよ。俺には待ちのぞむ日々のありしことを。
さあ、待ちのぞむ人があると。
希望ありしことを。
(過ぎ行く日々)」

例えば、あらゆる希望を胸に始まった学生生活。しかしながら、何かどこかが上手くいかない。いまいち乗り切れず、身の入らない日々。思い描いた「大学デビュー」を果たせなかったという焦燥と、未来への漠然とした不安。それでいて、それなりに(親の支えや学生という身分もあり)安定はしているようにも見える毎日。

「俺の生活は 無事なる我が暮らしと、ひまつぶし人生。(ひまつぶし人生)」


「やりたい事が見つからない」という言葉の裏には、「俺は何でも、やれば出来るんだ」という若さゆえの「きっと己は特別な何者かである」という(根拠の無いが故に日々刻々と明滅する)自信が見え隠れする。
それは「待ちのぞむ日々」が、そして「待ちのぞむ人」がきっと、何処かから「現われ」て、そんな現状を変えてくれる筈だという他力本願な(願望に近い)期待に依拠する。

冒頭に引用した「過ぎ行く日々」の、永遠に続くかとも思われる重いギターリフは、そんな行き場の無い若者特有の倦怠感を見事に表現している。

だからこそ、この(できれば思い出したくない)やるせないリアリティが、痛く、そして堪らなく愛しいのだ。
故に「好きだった」(「今は抜け出したけどね)」と自分は伏し目がちに言いたくなってしまうのである。

同様に、上記に例えた様な「モラトリアム」と呼ばれる学生時代、又はそれに類する日々を一時でも過ごしてしまった、又はその渦中におられる諸兄には、(鈍痛を持って)複雑なこの感情をご理解頂けることだろうと思う。

「何かが起こりそうな気がする、毎日そんな気がしてる(四月の風、八作目『ココロに花を』収録)」と先になって宮本先生は歌うが、そこへ至るまでのさながら「五月病」と呼んでもいい「ぬるま湯」の様な毎日を、24、5歳にしてやっと一人暮らしを始めたばかりの彼も過ごしていたのかも知れない。


補完する意味でもここで、当時を記録した貴重なライブ映像、そして何よりその後のオフショット、『5』収録の歌詞をもう一つ、見て頂こう。





「働いた疲れて寝た 働いた疲れて寝た ああ 夢を追わなきゃならない(何もなき一夜)」

結婚を控え、家庭を構え始めるメンバーも居る中、彼らにとっての「音楽」要するに、「夢」は当時、「仕事」としての側面を大きくしていた様に思える。

その合間の、まるでサークル室での一瞬を切り取ったかの様に自然に「麻雀」に興じる彼らの姿は、ほんの息抜きを越えた「理由もなく、ただこいつらと音を出すのだけが楽しかった」というかつてのバンド活動への懐古の様にも見えてくると言うのはいささか暴論だろうか。


エレファントカシマシというバンドの特異性の一つとして挙げられるのが、所謂、インディーズ時代を経ることなく(ライブハウスでの演奏や、オーディション回りなどは行っていたが)メジャーデビューという、時代背景もあるだろうが、ある種のバンドによっては一つのゴールへと置いてしまう場所から、その本格的な活動を開始しているという点だ。

これはある意味で、言葉は悪いが、彼らをそして宮本先生を「働く人」や「デビュー以前の売れないバンドマン」としての社会経験や下積みを経る前にさながら「温室」へ閉じこめてしまった効果も結果的にはあったのではないだろうか。
鳴り物入りのデビューから数年、いつしか「売れて当たり前」という自負は打ち砕かれ、残されたのは「仕事(音楽)」をこなす、それでいて、一般的に言われるサラリーマンとして働く人々とは一線を画した、結果も出せず、先も見えない、暗渠たる「過ぎ行く日々」だったのである。

そうして、当然の様な登場と、待ち望まれて当たり前だと考えていたリリースやライブ活動が、徐々に白けたものに感じられてゆく。

勿論、この程度の「挫折」は誰しも体験する事なのであるが、エレカシが特異なのは、前述した様にその「早過ぎる」デビューが故に、その葛藤の全てを(恐らく契約の関係などもあり)楽曲にそして詩作として作品に顕し続けてきたということだ。

だからこそ良くも悪くも(結果的にではあるが)本論を記す事が可能となったのであり、奇跡の様な名作『生活』なども誕生した訳である。


さて、六作目『奴隷天国』に於いて、エレカシ「原点回帰」が伺える荒くれたパンクサウンドには前述した様な「温室」よりの離脱の意思が感じられる。
しかしながらそれは、

「あてなき気迫垂れ流し 動かぬ身体持て余し(太陽の季節)」
「つらき本日あてなき気迫 力なき日々生身の体 失せ行く気力
太陽の季節 遠き真実(太陽の季節)」

といった様な、「だって、やるしか無いんだろう」「知らねぇよ、どうしようもねぇんだよ」というある種の「開き直り」であった側面が大きい。
如何様にも解釈出来うる「遠き真実」とは認め難いその現状を示唆しているのかも知れない
当時の、何とも噛み合わず、本音を避ける様なインタビュー記事からもそれは読み取れる。

ここで、ロッキング・オン94年8月号の久保憲司氏による記事を引用したい。

「宮本は本当は”奴隷天国”なんて作りたくなかったと思う。(中略)完璧なる作品が観客を動かしアーティストを踏みつけのし上がっていく瞬間を延々と待っていたのだ。(久保憲司 ロッキング・オン94年8月号)」

時代のせいかも知れない、(考えたくないが)ひょっとしたら己の才能のなさ故なのかも分からないが、兎にも角にも当初の「あて」は外れ、それがセールスや観客動員という結果として現れる。
思い通りにいかないその掛け違いが、徐々にバンドを、そして生活の首を絞めていったのは想像に難くないだろう。

結局のところ『5』と同様にこのアルバムに於いても、激しいサウンドに彩られながら、「日々」「毎日」「いつものとおり」という「果てしなき」生活が歌われているのである。
(故に、アジテーションとしての表題曲「奴隷天国」のセンセーショナルな魅力はアルバムを一望するに、何処か場違いで、浮いたような印象を与える。)

さて、これら停滞とも言える時代を経て、傑作と呼ばれる七作目『東京の空』にてバンドは大きな転機を迎えることになる。

「ありふれたことがいい そうさ
いつもと同じならいい
さりげない方がいい
花に水をやればいい(東京の空)」

このアルバムに於いて、上記の歌詞や、「誰かのささやき」という楽曲にも象徴されるように、宮本先生が獲得したのは「他者」の存在である。

かつて、「お前は何故に生きている」「小さき花を見るために」(遁世)
と歌い、近作に於いても自問自答を繰り返していた彼が、表題曲では、なんと「花」に「水」を与えているのである。
(このモチーフは今後重要となってくるので、覚えておいてほしい)

とは言え、引用部以外の全体を見渡すと、その様な状況を揶揄している様な歌詞にも読める。
だが、かつて「絶対の美」として見るだけに留めていたモノに対する、「介入」が歌われていることは事実である。
正面からの表現では無いにせよ、自分にしか分からないけれど何より「美しい」と思えるもの(小さき花)へ「水をやる」事で関わりを持ち、触れ得る場所まで今一歩近付こう。という無意識下での変化がここからは読み取れるのだ。
同様に、「ありふれた事がいい」「いつもと同じがいい」「さりげない方がいい」という歌詞からも、(例えそれが揶揄であったとしても)前作前々作を通して語られた「普通の日々」に対する焦燥、個的な憤り、自問自答から、より大きな「でも、みんなそうだよな」という「他者(及び自分)への許容・共感」を経る事で、「東京の空」の下に生きるもの同士、今はまだ「ああ街の空は晴れて ああ人の心晴れず(東京の空)」かも知れないが、(共に)頑張ろうじゃないか。「つまらなかった今日はおしまい 明日があるのさ(明日があるのさ)」という、雲間から差す光の様な一抹の希望を看取することが出来るのである。

以上のことが、この作品が「エピック時代」の到達点として「傑作」と呼ばれる所以である。

勿論、前回の記事にも書いた様に、サウンド的にはこのアルバムに於ける、
(我々の世代からすると感じてしまう)居心地の悪さは、時代に合わせた事によって良くも悪くも出てしまっている。
しかしながら、当時としては「正解」であったろう録音や、意識的に入れられた楽曲以外、つまりバンド(エレカシ)以外のサウンド、「もしも願いが叶うなら」に於ける鐘の音や雑踏のサンプリングなど)は今となっては多少のケレン味を持って聴こえるものの、それは作品としてのクオリティを上げよう、そして聴く人を楽しませよう、という「工夫」だとして大いに理解出来るのである。
盛大に迎えられたサポートメンバー(トランペット、キーボード等)の存在にも象徴的にそれが表れている。

いずれにせよ、このアルバムを持ってエピックソニーとの契約は解消の憂き目を見るが、「他者」という「仲間」を手にした彼ら、及び宮本先生には、それはさほど大きな問題であったとは思えない。
(次作のリリース元レーベルが決まるまでの間の貴重なライブ映像が残されているが、ここに見られるのは今迄とは考えられない、観客を意識し「盛り上げよう」という趣向に(多少空回ってはいるものの)溢れた彼らの姿である。
同様に、「契約切りやがってバカ野郎」と、当時下北沢シェルターで行ったライブの際に宮本先生は悪態をついているが、後に、「そう言うと、客が喜ぶんだよね」と語ったインタビューから、これもパフォーマンスの一環であったと受け取って良いだろう。また、この辺りのライブより今に繋がる「エビバデー」といった、場を盛り上げる宮本先生特有の「煽り」も見られ始める。)

むしろ、制作時に「契約解消」がささやかれた『東京の空』であったからこそ、「やっぱり音楽しか無い(し、それは一人では出来ない)」という意思を固め、気付く為に必要であった、「支えられていた自己」を知ることで、ある種の「一人立ち」へ到る為の、それは通過儀礼であったと言えるのでは無かろうか。

そして、96年、レーベル移籍後(ポニーキャニオン)第一弾、佐久間正英氏(元 四人囃子)をプロデュースに迎えた八作目『ココロに花を』の登場である。(年間チャート10位)

今作では、前作に於いて手の触れるところまで接近した「美」を更に、「ココロ」=「内」に秘める、つまり「絶対の美」を「デザイン」し、より分かりやすい形で見せる事に成功すると同時に前作以上に他者の介入を許し、楽曲を今まで以上の「ポップス」へと昇華する事が叶った。

(象徴する様に、ジャケットには一輪の花も、花びらさえもない。何故なら花は見たまま咲いたままのそれでは無く、内面に、つまりココロにこそあるのだから)







勿論、その移行はスムーズに行われた訳ではなく、楽曲・サウンドの変化に対する違和感に、完成した作品を聴いていた宮本先生がそのウォークマンを路上で叩き壊してしまったというエピソードが有名だ。
しかしながらそれも、前述した様な通過儀礼の一種であったと言えよう。

証拠に、それを経た先のある日、立ち寄った書店に偶然居合わせたエピック時代からのファンより「最近の曲には昔の曲にあった何かが感じられない」と言われたものの、宮本先生としてはその体験、感想を「嬉しかった」と後にインタビューでは語っている。
そんな彼に見られるのは、通過儀礼を経て、もはや変化を恐れなくなった、一人の「大人」の姿である。

「振り返れば 誰かの声 誰かの影
どこまでも ついて来る 世間の影
つかまえて 勇気づけて 俺を
(孤独な旅人)」



そして遂にエレカシは、九作目である『明日に向かって走れ』そして伴うシングル「今宵の月のように」に於いて、大ヒットの偉業を成し遂げる。
(アルバム、年間チャート2位。シングルはオリコン月間9位という華々しい結果である)

バンド史上最大のヒットソングとなり、最近のライブでは「皆さんにとってはどうか分かりませんが、我々にとっては大切な曲なんです」という照れた様なMCから始まる「今宵の月のように」は、
もはやクラシックと化し、筆者としても「もう聴かなくてもいい曲」と(恥ずかしながら)位置付けていたが、今回お話を頂き、改めて腰を据えて聴き直してみると、まず驚いたことのに、この曲は「サビが低い」のである。
一体それがどういうことなのか、少し説明をしよう。







エレカシ、そして宮本先生のこれまでの楽曲メロディーの傾向からすると、どうしてもサビが高過ぎて歌えないものが多かったのだが、(エレカシの曲は概ねキーが高く、この曲もAメロBメロと一般的基準よりかなり高い音程での作曲がなされているのだが)
おそらく、一番耳にし、口ずさんでしまうであろう、冒頭「下らねぇとつぶやいて」サビ「今日もまたどこへ行く、愛を探しに行こう」と言った親しみのあるフレーズの箇所が、軒並み鼻歌仕様とでも呼ぼうか、非常に歌いやすい音程で作曲されているのである。
前作『ココロに花を』リリース時のインタビューを引用すると、

「コンサートでやってて、盛り下がるのがすごいつまんなくて、(中略)、楽しく歌ったりとかして帰って欲しいなと思ったところもあります(ロッキング・オン・ジャパン 96年12月号)」という、
かつて演出と言えども「拍手」を禁じていたバンドからは考えれられない様な開けた言葉が飛び出している。
確かに、この曲なら歌える。
勿論、メロディーやアレンジも素晴らしいのだが、その「計算」が読み取れた時、自分はなんとも言えない幸福感に包まれた。

そうだ。これこそが「顧客」を意識した、歌って楽しんでもらう為の「デザイン」。そして、「ポップス」なのである。
他の誰にも歌えない様な、孤高の音楽を奏でていたエレファントカシマシが、「口ずさめる」に辿り着いたという事実。
それが故に「今宵の月のように」は今なお不変であり、偉大なるクラシックなのである。

さて、そろそろ結論に入ろう。
まずは次作『愛と夢』から、「はじまりは今」の末部をご覧いただきたい。

「迎えに行くよ町に咲く花を
君の両手に届けに行こう(はじまりは今)」

重複するが、かつて「お前は何故に生きている」「小さき花を見るために」(遁世)と露骨な美を歌っていた男が、そんな「花」に水をあげることを(無意識ながらも)直喩的に言葉にし、更にそれを「ココロ」に秘め、メタファーとしてデザインする事を覚え、最終的にそれを「君の両手に届けに行」く余裕までをも手にしたのである。
これを「成長」と呼ばずして何と言おうか。

(筆者はこの結論へ至った際、思わず「30代、愛する人のためのこの命だって事に あぁ気付いたな」(俺たちの明日 十七作目『STARTING OVER』収録)」と歌い出してしまった。)

前作前々作に於いてメロディーとして結実したポップスが、十作目にして遂に、歌詞、そして宮本先生の精神の面に於いても完成したのである。

これを持って、「エレカシ初期」そして、宮本先生の「成人」は完了するのだ。
今回のトークショーで自分が何としても伝えたかったのはここである。

とにかく、(先ほどは少しく悪いように言ってしまったが)早くに彼らをデビューさせてくれたレコード会社に感謝(と同時に過剰な諸作品に(内情は知らないがひとまず)OKを出し続けてくれたという度量の大きさへの賛辞)であり、その折々の感情を余すところなく楽曲へ昇華させ続けてくれた宮本先生、そして何より、時にバイトで生活費を捻出しながらも「辞めないで」いてくれたメンバーの方々に、大きな拍手(そして出来れば赤い薔薇いっぱいの花束)を送りたい。

とは言え勿論、この成長(『ココロに花を』以降)を機に、離れてしまったファン(上記の書店でのエピソードの様な)も居たことだろう。
だが、それは致し方のないことなのである。
いつだって、友人の成功は悔しい。そしてそれ以上に、手放しでそれを誇り、讃えることができない自分が何よりも悔しいのだ。
離れて行ってしまった彼らにとってのエレカシとは、夢を語り合い、そして時に口論し、また、涙し、互いに慰め合ってきた親友同士だったのであろう。
だからこそ、モラトリアム、或いは温室であったあの時間が愛しく、そしてそれを抜け出す事が適った者が羨ましく、裏切られたようにも感じてしまい「さらば青春」という言葉を受け入れることが難しいのだ。(これは筆者の一方的な主観と、かつての己への意見であり、そうでは無く単純にエピック時代の楽曲を愛していたファンの方には当てはまらないと付言しておく)

しかしながら、男と男の付き合いとは、得てしてそういうものなのである。
勘違いのない様に記しておくが、それが(男の)ロマンだからと女性を蚊帳の外に置いて遠い目をするつもりは毛頭無い。エレカシ(特にエピック時代)を前にする時だけは、男女の垣根はなくなり、一様に皆ひとりの「男」となるのであるから。


さて、長々と語ってきたが、筆者はここでひとまず筆を置こうと思う。
今後の諸作品への考察も、一応は深めているのだが、いかんせん28歳になった(温室を抜け出たと思いたい)ばかりの若輩者に出来るのは、サウンドの読み取りとエピソードを交えた解説くらいのものである。
実感(そして幾ばくかの反省)を持って語れるのは、残念ながら、ここまでだ。

いつかまた、今回の様なイベントを開くこともあるだろう。それまでは音楽家・タレント・レーベル運営者、そして何より一人の男として、成長した姿で皆様の前に立てる様に日々を邁進していきたいと思う。

最後になるが、きっかけを下さった加藤氏、貴重な機会を設けて下さったLoft Booksの小柳氏、トークショー当日にご来場を下さった沢山の方々、相方を務めてくれた剤電氏、そして、拙い文章を最後までご拝読下さったあなたに、精一杯の賛辞と感謝を送りたい。

おかげで、有意義な日々を過ごす事が出来ました。
ありがとう。

そうして、前にも増して俺はエレカシが大好きになってしまいました。


さぁ!共にかけ出そうではないか。
レッツゴー明日へ、
そして、笑顔の未来へ。


2018年4月20日 
片岡フグリ


(了)

2018年4月16日月曜日

トークアバウト・エレファントカシマシ 前編


長い前置き 今回のトークに至るまで

(※エレカシの話はもうちょっと後なので、興味のない人は飛ばしてもらって大丈夫です)

先日(2018年4月13日)、エレファントカシマシデビュー30周年を記念して、機会を頂き、関するトークイベントをLOFT ROCK CAFE(http://www.loft-prj.co.jp/rockcafe/)にて行った。

元はと言えば以前、Naked Loft(http://www.loft-prj.co.jp/naked/)にて上池袋くすのき荘という古民家に生活しながらアート製作、イベント運営を行っている加藤さんという方に「音楽シーンの現在」という趣旨のトークイベントへお誘いを頂いたのがそもそものきっかけである。(永田健太郎氏(Tabletop guitars、Frascoプロデュース)、黒澤氏(毛玉)と共に登壇)

バンド活動の傍らPHETISH/TOKYOというレーベルを運営し、イベント制作などを行っている立場の者から言って、イベントとは「点」を結ぶための「線」である必要があると考えていて、要するに「点」とは人であり、バンドの言い換えである。
東京というダイバーシティ極まる特殊な空間に於いて、才能があり、新奇で素晴らしい音楽を創造している人間は大量に存在してはいるのだが、その「繋がり」つまり「線」を見せないと人は来ない。

「今夜は被りが多くて迷った」という意見をお客様から賜ることがあるが、先ほど申し上げた様に、沢山のアーティストがいる以上、必然的に開催されるイベントも多くなる。
特に週末、金土日曜日は、我々の仕事にとっては本番であり、戦いの時間だと言っても過言ではない。

沢山のイベントが同時多発に開催されている環境の中で、「今夜はどこへ行こうか」と選択する耳の肥えたリスナーは「今日このイベント、もしくはバンドを見に行く意味」を逡巡し、要するに「線」を看取し、それを決定することになる。
故に、良いバンド、仲の良い演者をただ集めただけでは、本当の意味での集客(知り合い、友達関係以外の)は望めない。
(例えば、スリーマン(三組の出演者で構成された公演)のイベントを開催するより、それぞれのバンドのワンマンライブ(CD発売記念など何か大きな理由を持ったそれ)などへの方が結果的に集客が多かった、というのも上記の理由に依る)

前述したトークイベントに於いても、個人的にその「線」の部分の甘さ(登壇者と個人的な繋がりはあったものの、「今ここで」話す意味の薄さ、つまり点が点のままで結ばれてはいない状態。「コンセプト」と言い換えてもいいかも知れない)を心配しており、やはりその懸念通り、来場者は少なかった。(勿論、筆者の知名度の低さも大きな要因ではあると思うが)

落胆はしたものの、トークに関しては全力で行った。
これは、自分の作戦、今後音楽シーンで生き残る為の戦略と言っては言い過ぎかも知れないが、筆者の浅薄な思考の結論として「タレント」、要するに(おもしろい)個人として、音楽を含めたカルチャーシーンに存在していこうという狙いからである。

自分の様に、28歳になる今まで歌手としてヒットソングも作り出せず、バンドとしてもまだまだこれからといった立場を客観的に憂慮・判断した際に、それでもやっぱり「音楽(そしてそれに類する文化全般)」に携わって生きていきたいという思いから、活動の密度を高め続けていくためには、週末のライブ演奏のみではなく、それこそ、類するトーク、或いは文章、などの活動にも力を入れ「タレント」としての自分を作り上げるしかないと思い至った。(同時に、フリーランスのデザイナー(イベントフライヤー、CDジャケット制作等)としての肩書きも自分は持っており、そこに置いては人との繋がりが全てであるが故に、活動の幅を広げることで、これも必然的に大きくなっていくだろうという期待からで、同様にレコーディングエンジニア、プロデュース業へ幅を広げる方々とある程度思考は通底していると思われる)

という考えから、トークのプロである、Naked Loftのスタッフの方へ「俺は話が出来ます」という過剰なアピール・プレゼンテーションが(恐らく)功を奏し、今回のイベントのお話を獲得することが適った次第である。
(エレファントノイズカシマシという奇矯なバンド名の影響も大きいとは思われるが。。)

ともあれ、ご提案を頂き、自分が心より愛し、そして共に歩んできたと言っても過言ではないこのバンドの歴史を自分なりに辿ってみることにした。するとどうだろう。漠然とリスナーに徹していた頃では思いもしなかった、発見に次ぐ発見、そして何より、大きな感動があるでは無いか。
以下より、(当日ガチガチの緊張に包まれて話漏れてしまった箇所の補完としても)、その詳細をまとめていこう。



本題 


さて、長々と自分のことを語ってしまったが、
エレファントカシマシという日本最強のロックバンドについて、何回かに分けて、お話をしていこうと思う。

細かい詳細は割愛するが、結成81年、中学時代の同級生から始まった彼らの活動は、メンバーの脱退、受験によるブランクなどを経たのち、86年、ベースの高緑氏を迎えることにより活性化し、88年、弱冠21歳でのメジャーデビューという順風満帆な始まりを見せる。

当時のデモ録音を聴くと、RCサクセション直系のそのサウンドや楽曲アレンジには新規なものをさほど感じないが、やはりボーカルの宮本浩次氏(以下、宮本先生)の小学時代の合唱団時代に培われたと思われる確かな発声に裏打ちされた未だ粗野で野太いながらも他のバンドとは一線を画す天性の歌声は、当時から圧倒的な魅力に溢れている。

デビュー当時、大学の商学部に在籍していた宮本先生はインタビューでも「音楽に対する執着は薄い」と語っているが同時に「ミュージシャンは絶対続けるつもり」との宣言も行っている。筆者が思うに、これは彼特有のシャイであって、メンバーを交えたインタビュー記事からも「俺たちは格好いい。だから売れて当たり前」という気概が伝わって来る。
(雑誌ロッキング・オン・ジャパン、並びに編集長渋谷氏の猛プッシュも文字通りそれを後押しした事だろう)





当時の彼らは、主にライブ演奏に於いて、先輩バンドに対する悪態や、客への着席の強要、拍手の禁止、といった今とはなっては伝説として語られる一触即発「戦略」(あえてこの言葉を使うのは、後のインタビューで宮本先生自らそう言った「演出」的プロデュースは不本意なものであったと語っているからである)を行い、
結果的に「ただ肉声だけが響いた(岩見吉郎 88年ロッキング・オン・ジャパン エレファントカシマシ渋谷公会堂公演レポート)」という記事に集約される、
「本番にも関わらず客電を付けっぱなしにする」という演出に象徴的に表れた、楽曲の素晴らしさ、そしてバンドの存在感「のみ」での演奏を生々しく行い、客側にも「向き合い」を求める、そのストイックな姿勢によって熱狂的なファンを産んだ。(故に、ギターの弦が切れるなどのトラブルがあった場合、懇切丁寧に謝罪する氏の姿も幕間に見られたそうである)

上記の「戦略」をデザイン的な面から象徴的に表しているのがファーストアルバムの発売告知記事で、歌舞伎の「隈取り」をモチーフにした様なタイポグラフィーは彼らを「傾奇者」的ポジションに置こうという会社側の狙いが表れている。



さて、「日本語ロックの大本命」としての鳴り物入りのデビューを果たしたエレファントカシマシであったが、これより、このバンド、ひいては宮本先生の長い混迷と戦いは始まる。

セールス的にも敗北と言っていい結果を残しており(ファーストアルバムに至ってはランキング圏外、セカンドアルバムは71位)、「売れて当たり前」という理想論は徐々に破綻をきたしていく事になる。

今後重要となって来る作詞の面へ目を向けると、ファーストアルバムでは、比較的単純な、ある種幼いとも言えるメッセージ(上の世代又は社会への批判、右翼的傾向のあるアジテーション、または日常の些事に対する若者特有の鬱屈、同様にストレートなラブソング)が、歌われている。

「ニタリ ニタリと策士ども 転ばぬ先の杖のよう (花男)」
「日本の神を中心にして、立派な国を築きたい (星の砂) 」
「BLUE DAYS ここはまさに地獄絵図 (BLUE DAYS)」

しかしながら、「売れない」という状況による影響からか、また大学卒業を契機にした横目に見る就職=安定した生活、へのためらいや憧憬からか(就職する気も特にはない、と大学時代のインタビューで宮本先生は話してはいるが、商学部という学科の特性上、全くそれが頭に無かったとは考えにくい)、セカンドアルバム以降、「働く人」などのキーワードや、何もしないで部屋にいる自分への自問自答といった内省的なやるせなさを表した歌詞が増えていく。

サウンド面にもそれは表れており、ファーストアルバム、セカンドアルバムでは、いわゆる「リフ」と呼ばれる同じフレーズを繰り返す事でカタルシスを産むギターのロック的アプローチが(デーデ、ファイティングマン、ゲンカクGet up bay等)目立っていたが、以降、三枚目、四枚目を経るに従い、コードのアルペジオ(フォークシンガー等が主に行う弦を一本ずつ爪弾き情感を表す手法。セカンドアルバム収録「優しい川」に於いてその萌芽が伺われ、サードアルバム、フォースアルバムでは、それが顕著になっていき、それこそアコースティックギター弾き語りとも言える楽曲も作られていく)への推移が見られる。

つまり、サウンドではなく、「詩」を聴かせたいという狙いが明確に定められ始めた訳である。(『浮世の夢』以降の異常なボーカル録音の大きさにもそれは伺える)

(余談だが、日本語歌詞を制作し音楽に乗せる際、基本的には5.7.5という俳句の定型に当てはめるのが収まりが良いとされているが、サードアルバム『浮世の夢』以降のエレカシのそれは文章の領域へ足を踏み入れており、それは当時彼が傾倒をしていた永井荷風に代表される明治・大正期の作家の影響であるというのが通説である。近代文学的な語りで綴られた『生活』収録「凡人-散歩き-」の異常な読みにくさ、はある意味ではその白眉である)

「日本語ロックの大本命」から「孤高のカリスマ」へ進んだエレファントカシマシの、他に類を見ないロックはこれによって更にその一歩を進め、例えばその真骨頂とも言え、素晴らしい「詩集」としても読めると筆者が考えるフォースアルバム『生活』に於ける、「偶成」「遁世」といった楽曲の歌詞には象徴的にそれが表れている。

「俺はこのため生きてきた ドブの夕陽を見るために ドブの夕陽を見るために」(偶成)
「お前は何故に生きている?」「小さき花を見るために。小さき花を見るために」(遁世)

上記に引用した様に、「ドブの夕陽」「小さき花」といったキーワードが示すのは、「(上を向いて前向きに日々を生きている)他人には分からない(俯いている自分にしか見る事の敵わない)美」という大変詩的なモチーフである。
特に「ドブの夕陽」というフレーズを、筆者はその到達点として捉えている。
敢えて、眼前に展開する夕陽、望郷、叙情の最重要モチーフとして用いられるそれを、「ドブ」に見る。鬱屈した精神、それでも美しいものを求め彷徨い歩いてしまう己の生の儚さ切なさ、そして一抹の希望をここまで簡潔に見事表現し得たものが他にあっただろうか。
(また、遁世に見られるように、独白とも言えるような告白を、質問→解答という形式で行ったそれは、ランボーの代表詩、「また見つけたよ」「何を?」「永遠を」(永遠)をも連想させる輝きを秘めている)

筆者は『生活』リリース(1990年)と共にこの世に生を受けた世代なので、勿論バブル、
そしてそれに起因する浮かれた日本といった時代背景は実体験としては分からない。
しかしながら、いつの時代にもはみ出し者というのは居て、
少なからずそんな時代の空気に乗れず、浮かれた世間を横目に見て厭世の感を募らせていた者の心へ、これらの楽曲が著しくマッチし、大きな慰めとなった事は想像に難くない。

だからこそこのアルバムは、そういった時代の空気のある側面をパッキングした、
唯の奇異なサンプル(宮本先生プロデュースによる異常なミックスの音源であるという事を抜きにしても)では無く、誕生以来の不況世代と言われる我々にも、そして今後彼らに出逢っていくであろう人々にも(ある種「永遠に」)届く非凡なメッセージとして感取され得るのである。ロッキング・オン編集「風に吹かれて」の扉に用いられた『「生活」青春の結晶』という短いセンテンスが、見事にそれを表象している。

これこそが、『生活』を「100年後の君の隣に座るために存在する」と筆者が信じる「詩」の結晶だと言い切れる所以である。

(故に、録音ミックス等を含め、ある程度時代に合わせたと思われる七作目『東京の空』(1994年リリース)には何処か肩透かしを食らった様な居心地の悪さを筆者は感じる)


しかしながら、やはりセールスは振るわず、「浮世の夢」は56位、「生活」は43位という結果に終わっている。



だが、武道館3000席(チケットが捌けなかった為、限定席数の公演と銘打って行った)のライブ演奏などを見るに付け、詩世界の鬱屈とは裏腹に、宮本先生の歌声はデビュー当時以上の爆発的な前進力を持って台頭している様に思える。
そこには「分かる人にだけ、分かればいい」という狭小な考えは伺えず、
むしろ絶対の信念を持って音楽へ対峙しようという腹を括った精神が、筆者には見えてならないのである。