2018年4月16日月曜日

トークアバウト・エレファントカシマシ 前編


長い前置き 今回のトークに至るまで

(※エレカシの話はもうちょっと後なので、興味のない人は飛ばしてもらって大丈夫です)

先日(2018年4月13日)、エレファントカシマシデビュー30周年を記念して、機会を頂き、関するトークイベントをLOFT ROCK CAFE(http://www.loft-prj.co.jp/rockcafe/)にて行った。

元はと言えば以前、Naked Loft(http://www.loft-prj.co.jp/naked/)にて上池袋くすのき荘という古民家に生活しながらアート製作、イベント運営を行っている加藤さんという方に「音楽シーンの現在」という趣旨のトークイベントへお誘いを頂いたのがそもそものきっかけである。(永田健太郎氏(Tabletop guitars、Frascoプロデュース)、黒澤氏(毛玉)と共に登壇)

バンド活動の傍らPHETISH/TOKYOというレーベルを運営し、イベント制作などを行っている立場の者から言って、イベントとは「点」を結ぶための「線」である必要があると考えていて、要するに「点」とは人であり、バンドの言い換えである。
東京というダイバーシティ極まる特殊な空間に於いて、才能があり、新奇で素晴らしい音楽を創造している人間は大量に存在してはいるのだが、その「繋がり」つまり「線」を見せないと人は来ない。

「今夜は被りが多くて迷った」という意見をお客様から賜ることがあるが、先ほど申し上げた様に、沢山のアーティストがいる以上、必然的に開催されるイベントも多くなる。
特に週末、金土日曜日は、我々の仕事にとっては本番であり、戦いの時間だと言っても過言ではない。

沢山のイベントが同時多発に開催されている環境の中で、「今夜はどこへ行こうか」と選択する耳の肥えたリスナーは「今日このイベント、もしくはバンドを見に行く意味」を逡巡し、要するに「線」を看取し、それを決定することになる。
故に、良いバンド、仲の良い演者をただ集めただけでは、本当の意味での集客(知り合い、友達関係以外の)は望めない。
(例えば、スリーマン(三組の出演者で構成された公演)のイベントを開催するより、それぞれのバンドのワンマンライブ(CD発売記念など何か大きな理由を持ったそれ)などへの方が結果的に集客が多かった、というのも上記の理由に依る)

前述したトークイベントに於いても、個人的にその「線」の部分の甘さ(登壇者と個人的な繋がりはあったものの、「今ここで」話す意味の薄さ、つまり点が点のままで結ばれてはいない状態。「コンセプト」と言い換えてもいいかも知れない)を心配しており、やはりその懸念通り、来場者は少なかった。(勿論、筆者の知名度の低さも大きな要因ではあると思うが)

落胆はしたものの、トークに関しては全力で行った。
これは、自分の作戦、今後音楽シーンで生き残る為の戦略と言っては言い過ぎかも知れないが、筆者の浅薄な思考の結論として「タレント」、要するに(おもしろい)個人として、音楽を含めたカルチャーシーンに存在していこうという狙いからである。

自分の様に、28歳になる今まで歌手としてヒットソングも作り出せず、バンドとしてもまだまだこれからといった立場を客観的に憂慮・判断した際に、それでもやっぱり「音楽(そしてそれに類する文化全般)」に携わって生きていきたいという思いから、活動の密度を高め続けていくためには、週末のライブ演奏のみではなく、それこそ、類するトーク、或いは文章、などの活動にも力を入れ「タレント」としての自分を作り上げるしかないと思い至った。(同時に、フリーランスのデザイナー(イベントフライヤー、CDジャケット制作等)としての肩書きも自分は持っており、そこに置いては人との繋がりが全てであるが故に、活動の幅を広げることで、これも必然的に大きくなっていくだろうという期待からで、同様にレコーディングエンジニア、プロデュース業へ幅を広げる方々とある程度思考は通底していると思われる)

という考えから、トークのプロである、Naked Loftのスタッフの方へ「俺は話が出来ます」という過剰なアピール・プレゼンテーションが(恐らく)功を奏し、今回のイベントのお話を獲得することが適った次第である。
(エレファントノイズカシマシという奇矯なバンド名の影響も大きいとは思われるが。。)

ともあれ、ご提案を頂き、自分が心より愛し、そして共に歩んできたと言っても過言ではないこのバンドの歴史を自分なりに辿ってみることにした。するとどうだろう。漠然とリスナーに徹していた頃では思いもしなかった、発見に次ぐ発見、そして何より、大きな感動があるでは無いか。
以下より、(当日ガチガチの緊張に包まれて話漏れてしまった箇所の補完としても)、その詳細をまとめていこう。



本題 


さて、長々と自分のことを語ってしまったが、
エレファントカシマシという日本最強のロックバンドについて、何回かに分けて、お話をしていこうと思う。

細かい詳細は割愛するが、結成81年、中学時代の同級生から始まった彼らの活動は、メンバーの脱退、受験によるブランクなどを経たのち、86年、ベースの高緑氏を迎えることにより活性化し、88年、弱冠21歳でのメジャーデビューという順風満帆な始まりを見せる。

当時のデモ録音を聴くと、RCサクセション直系のそのサウンドや楽曲アレンジには新規なものをさほど感じないが、やはりボーカルの宮本浩次氏(以下、宮本先生)の小学時代の合唱団時代に培われたと思われる確かな発声に裏打ちされた未だ粗野で野太いながらも他のバンドとは一線を画す天性の歌声は、当時から圧倒的な魅力に溢れている。

デビュー当時、大学の商学部に在籍していた宮本先生はインタビューでも「音楽に対する執着は薄い」と語っているが同時に「ミュージシャンは絶対続けるつもり」との宣言も行っている。筆者が思うに、これは彼特有のシャイであって、メンバーを交えたインタビュー記事からも「俺たちは格好いい。だから売れて当たり前」という気概が伝わって来る。
(雑誌ロッキング・オン・ジャパン、並びに編集長渋谷氏の猛プッシュも文字通りそれを後押しした事だろう)





当時の彼らは、主にライブ演奏に於いて、先輩バンドに対する悪態や、客への着席の強要、拍手の禁止、といった今とはなっては伝説として語られる一触即発「戦略」(あえてこの言葉を使うのは、後のインタビューで宮本先生自らそう言った「演出」的プロデュースは不本意なものであったと語っているからである)を行い、
結果的に「ただ肉声だけが響いた(岩見吉郎 88年ロッキング・オン・ジャパン エレファントカシマシ渋谷公会堂公演レポート)」という記事に集約される、
「本番にも関わらず客電を付けっぱなしにする」という演出に象徴的に表れた、楽曲の素晴らしさ、そしてバンドの存在感「のみ」での演奏を生々しく行い、客側にも「向き合い」を求める、そのストイックな姿勢によって熱狂的なファンを産んだ。(故に、ギターの弦が切れるなどのトラブルがあった場合、懇切丁寧に謝罪する氏の姿も幕間に見られたそうである)

上記の「戦略」をデザイン的な面から象徴的に表しているのがファーストアルバムの発売告知記事で、歌舞伎の「隈取り」をモチーフにした様なタイポグラフィーは彼らを「傾奇者」的ポジションに置こうという会社側の狙いが表れている。



さて、「日本語ロックの大本命」としての鳴り物入りのデビューを果たしたエレファントカシマシであったが、これより、このバンド、ひいては宮本先生の長い混迷と戦いは始まる。

セールス的にも敗北と言っていい結果を残しており(ファーストアルバムに至ってはランキング圏外、セカンドアルバムは71位)、「売れて当たり前」という理想論は徐々に破綻をきたしていく事になる。

今後重要となって来る作詞の面へ目を向けると、ファーストアルバムでは、比較的単純な、ある種幼いとも言えるメッセージ(上の世代又は社会への批判、右翼的傾向のあるアジテーション、または日常の些事に対する若者特有の鬱屈、同様にストレートなラブソング)が、歌われている。

「ニタリ ニタリと策士ども 転ばぬ先の杖のよう (花男)」
「日本の神を中心にして、立派な国を築きたい (星の砂) 」
「BLUE DAYS ここはまさに地獄絵図 (BLUE DAYS)」

しかしながら、「売れない」という状況による影響からか、また大学卒業を契機にした横目に見る就職=安定した生活、へのためらいや憧憬からか(就職する気も特にはない、と大学時代のインタビューで宮本先生は話してはいるが、商学部という学科の特性上、全くそれが頭に無かったとは考えにくい)、セカンドアルバム以降、「働く人」などのキーワードや、何もしないで部屋にいる自分への自問自答といった内省的なやるせなさを表した歌詞が増えていく。

サウンド面にもそれは表れており、ファーストアルバム、セカンドアルバムでは、いわゆる「リフ」と呼ばれる同じフレーズを繰り返す事でカタルシスを産むギターのロック的アプローチが(デーデ、ファイティングマン、ゲンカクGet up bay等)目立っていたが、以降、三枚目、四枚目を経るに従い、コードのアルペジオ(フォークシンガー等が主に行う弦を一本ずつ爪弾き情感を表す手法。セカンドアルバム収録「優しい川」に於いてその萌芽が伺われ、サードアルバム、フォースアルバムでは、それが顕著になっていき、それこそアコースティックギター弾き語りとも言える楽曲も作られていく)への推移が見られる。

つまり、サウンドではなく、「詩」を聴かせたいという狙いが明確に定められ始めた訳である。(『浮世の夢』以降の異常なボーカル録音の大きさにもそれは伺える)

(余談だが、日本語歌詞を制作し音楽に乗せる際、基本的には5.7.5という俳句の定型に当てはめるのが収まりが良いとされているが、サードアルバム『浮世の夢』以降のエレカシのそれは文章の領域へ足を踏み入れており、それは当時彼が傾倒をしていた永井荷風に代表される明治・大正期の作家の影響であるというのが通説である。近代文学的な語りで綴られた『生活』収録「凡人-散歩き-」の異常な読みにくさ、はある意味ではその白眉である)

「日本語ロックの大本命」から「孤高のカリスマ」へ進んだエレファントカシマシの、他に類を見ないロックはこれによって更にその一歩を進め、例えばその真骨頂とも言え、素晴らしい「詩集」としても読めると筆者が考えるフォースアルバム『生活』に於ける、「偶成」「遁世」といった楽曲の歌詞には象徴的にそれが表れている。

「俺はこのため生きてきた ドブの夕陽を見るために ドブの夕陽を見るために」(偶成)
「お前は何故に生きている?」「小さき花を見るために。小さき花を見るために」(遁世)

上記に引用した様に、「ドブの夕陽」「小さき花」といったキーワードが示すのは、「(上を向いて前向きに日々を生きている)他人には分からない(俯いている自分にしか見る事の敵わない)美」という大変詩的なモチーフである。
特に「ドブの夕陽」というフレーズを、筆者はその到達点として捉えている。
敢えて、眼前に展開する夕陽、望郷、叙情の最重要モチーフとして用いられるそれを、「ドブ」に見る。鬱屈した精神、それでも美しいものを求め彷徨い歩いてしまう己の生の儚さ切なさ、そして一抹の希望をここまで簡潔に見事表現し得たものが他にあっただろうか。
(また、遁世に見られるように、独白とも言えるような告白を、質問→解答という形式で行ったそれは、ランボーの代表詩、「また見つけたよ」「何を?」「永遠を」(永遠)をも連想させる輝きを秘めている)

筆者は『生活』リリース(1990年)と共にこの世に生を受けた世代なので、勿論バブル、
そしてそれに起因する浮かれた日本といった時代背景は実体験としては分からない。
しかしながら、いつの時代にもはみ出し者というのは居て、
少なからずそんな時代の空気に乗れず、浮かれた世間を横目に見て厭世の感を募らせていた者の心へ、これらの楽曲が著しくマッチし、大きな慰めとなった事は想像に難くない。

だからこそこのアルバムは、そういった時代の空気のある側面をパッキングした、
唯の奇異なサンプル(宮本先生プロデュースによる異常なミックスの音源であるという事を抜きにしても)では無く、誕生以来の不況世代と言われる我々にも、そして今後彼らに出逢っていくであろう人々にも(ある種「永遠に」)届く非凡なメッセージとして感取され得るのである。ロッキング・オン編集「風に吹かれて」の扉に用いられた『「生活」青春の結晶』という短いセンテンスが、見事にそれを表象している。

これこそが、『生活』を「100年後の君の隣に座るために存在する」と筆者が信じる「詩」の結晶だと言い切れる所以である。

(故に、録音ミックス等を含め、ある程度時代に合わせたと思われる七作目『東京の空』(1994年リリース)には何処か肩透かしを食らった様な居心地の悪さを筆者は感じる)


しかしながら、やはりセールスは振るわず、「浮世の夢」は56位、「生活」は43位という結果に終わっている。



だが、武道館3000席(チケットが捌けなかった為、限定席数の公演と銘打って行った)のライブ演奏などを見るに付け、詩世界の鬱屈とは裏腹に、宮本先生の歌声はデビュー当時以上の爆発的な前進力を持って台頭している様に思える。
そこには「分かる人にだけ、分かればいい」という狭小な考えは伺えず、
むしろ絶対の信念を持って音楽へ対峙しようという腹を括った精神が、筆者には見えてならないのである。



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